1965年を境にヒトはキツネにだまされる能力を失った。それは人間の自然観の変化があるのではないか、というのがいろいろな説のうちのひとつ。
以下、本の簡略抜粋
「かつての日本では、自然をジネンと発音していた。ジネンはオノズカラシカリという意味の言葉、自然にそうなったとか自然の成り行きという表現は、自然をジネンと発音していた時代の名残り」
「自然に帰りたいという人々の思いは、オノズカラの世界に帰りたいという思いであった。」「昔の人々の意識では、ジネンは人間の外にある客体ではなく、いずれは人間が戻って行く世界ととらえられていた。」
「現代の私たちは、ジネンよりもシゼンの方がわかりやすい。それは私たちの精神が近代化したから、あるいは欧米化したから・・・自然保護という言葉を平気で使えるほどに、私たちの自然観は変わった。」
「自然のなかにジネンをみなくなったとき、自然と人間の関係が変容した。」「この変容が、人間がキツネにだまされない時代をつくりだしたのではないか・・・」
ヒトは、合理的な考え、便利な生活を手に入れた代わりに
大事なものを失ったのかもしれない。
私自身、もうよく分からないけど、キツネにだまされるような世界、深い山にこれからも入って行きたいと思う。
ヒトは、キツネにはだまされなくなったけど、「お母さん助けて詐欺」にはコロコロ騙される。これは能力を得たのではなく何かを失った結果なのだろう。それにしても、この手の話には全くユーモアはない。
狐に化かされたことがある。たぶん、そうだったのだと思う。2005年11月、南ア深南部の風イラズ山頂に泊まって、下山の時のこと。
前の日に大無間山から尾根を辿って、風イラズの山頂にテントを張り、今日は南に尾根を下って、大井川鉄道尾盛駅に下山です。
山頂から下るとき、コンパスを南に合わせた。
途中、大きな倒木が尾根を塞いでいるのが見えていた。それを左から回り込むように避けた・・・確かな記憶はここで途切れて
また、尾根道(踏跡みたいなものだけど)に戻って、下り始めたのだけど、何か変な感じがしてコンパスを出すと、真反対の北に下っている。ちょっと混乱した。何度、コンパスを振っても針は北に向いたまま。
何が起こったのだろう。尾根を登り返すと、確かに
昨日通った場所の記憶がある。
頭が混乱しているなか、山頂に戻って、再び南に尾根を下る。今度は倒木を小さく避けて尾根に戻った。
風イラズの山頂は、そんなに狭いところではなかったように思う。山頂から真南に尾根を下って、途中倒木を避けたところから、山腹をトラバースして山頂から真北に下る尾根に乗っかった・・・
そんなことがあり得るのだろうか。そのあたりの記憶が、全く飛んでしまっている。もう一度辿って確かめるのだった。