狐に化かされたことがある。たぶん、そうだったのだと思う。2005年11月、南ア深南部の風イラズ山頂に泊まって、下山の時のこと。

前の日に大無間山から尾根を辿って、風イラズの山頂にテントを張り、今日は南に尾根を下って、大井川鉄道尾盛駅に下山です。

途中、大きな倒木が尾根を塞いでいるのが見えていた。それを左から回り込むように避けた・・・確かな記憶はここで途切れて

また、尾根道(踏跡みたいなものだけど)に戻って、下り始めたのだけど、何か変な感じがしてコンパスを出すと、真反対の北に下っている。ちょっと混乱した。何度、コンパスを振っても針は北に向いたまま。

山頂から下るとき、コンパスを南に合わせた。

何が起こったのだろう。尾根を登り返すと、確かに昨日通った場所の記憶がある。

頭が混乱しているなか、山頂に戻って、再び南に尾根を下る。今度は倒木を小さく避けて尾根に戻った。

風イラズの山頂は、そんなに狭いところではなかったように思う。山頂から真南に尾根を下って、途中倒木を避けたところから、山腹をトラバースして山頂から真北に下る尾根に乗っかった・・・

そんなことがあり得るのだろうか。そのあたりの記憶が、全く飛んでしまっている。もう一度辿って確かめるのだった。

タワ尾根のお狐さま

内山節著 講談社現代新書

1965年を境にヒトはキツネにだまされる能力を失った。それは人間の自然観の変化があるのではないか、というのがいろいろな説のうちのひとつ。

以下、本の簡略抜粋
「かつての日本では、自然をジネンと発音していた。ジネンはオノズカラシカリという意味の言葉、自然にそうなったとか自然の成り行きという表現は、自然をジネンと発音していた時代の名残り」
「自然に帰りたいという人々の思いは、オノズカラの世界に帰りたいという思いであった。」「昔の人々の意識では、ジネンは人間の外にある客体ではなく、いずれは人間が戻って行く世界ととらえられていた。」
「現代の私たちは、ジネンよりもシゼンの方がわかりやすい。それは私たちの精神が近代化したから、あるいは欧米化したから・・・自然保護という言葉を平気で使えるほどに、私たちの自然観は変わった。」
「自然のなかにジネンをみなくなったとき、自然と人間の関係が変容した。」「この変容が、人間がキツネにだまされない時代をつくりだしたのではないか・・・」

ヒトは、合理的な考え、便利な生活を手に入れた代わりに大事なものを失ったのかもしれない。

私自身、もうよく分からないけど、キツネにだまされるような世界、深い山にこれからも入って行きたいと思う。

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ヒトは、キツネにはだまされなくなったけど、「お母さん助けて詐欺」にはコロコロ騙される。これは能力を得たのではなく何かを失った結果なのだろう。それにしても、この手の話には全くユーモアはない。